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とまり木 常盤木 ごゆるりと

ひねもすのたのた

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『ヴィクトリアの小路をきみとオムニバスで(後半)』


早速ですが、続きですー。後半戦!
このオムニバス、前半と後半、順番間違えないようにお気をつけを。
や、その、ちょっと仕掛けといいますか繋がり方といいますか。
ともあれ、続きからどうぞー。







『明日のあしたはヒギンズ教授にごきげんよう』

 先代ジョースター卿からの肩書き引継ぎや、引越し、それらに伴う各種確認やら書類提出などの面倒な事柄が、ようやく一段落を迎えた。全てが終わったわけではないものの峠は越えたため、ロンドンのジョースター家タウン・ハウスに関る人々は、ほっと息をついた。勿論そこには、使用人一同だけでなく、滞在しながら作業を手伝い続けたエリナや、連日ウェスト・エンドに通い詰めたスピードワゴンも含まれている。
 ここしばらくの気忙しさから解放された面々は、今や難題をやっつけるためではなく、菓子と紅茶の香気に包まれてゆったりと語らうために集う。その日もまた彼らは、もう幾度開かれたかもしれないお茶の席へ、和やかに着いていた。

 ロンドンとは性質が異なる、やや硬めのスコーンを欠片もなく割るにはどうしたものかと苦心するスピードワゴンに「それはどうしても零れるものだよ」とジョナサンは微笑む。しかしそう言う彼の手元には最低限の欠片しか落とされておらず、また卓に散ることもなく、きちんと皿の上に載っている。
 最初のほうに開かれたお茶の席と比べれば、スピードワゴンの手つきも随分と自然なものになった。とはいえ、こういった細かな所に気がつくたび、青年は格の違いというものを思わずにはいられなかった。しかし今からでもできることはあるはずと、尊敬する人に恥をかかせないように、『向上』の一言を胸に刻んで努力を誓う。
 破片を気にしつつ注意深くスコーンを割ってから、スピードワゴンは小さなナイフに指を伸ばして卓上を見やる。
「あ。ジョースターさん、すみません。ちょっとそこのプリザーヴを取っちゃあ貰えませんか」
 目的の器がやや離れた位置にあり、手が届かなかったため、スピードワゴンは一番その側にいるジョナサンへ声をかける。鷹揚に答えるや、彼は器をそっと差し出してくれるだろうと、スピードワゴンは疑いもせず思っていた。
 ところが予想に反し、ジョナサンは目をぱちくりと見開いて、動こうとしない。カップを持ち上げかけたまま、今にも首を傾げんばかりに、不思議そうな顔で見つめてくる。思わぬ反応に、今度はスピードワゴンがきょとんとジョナサンを見返してしまう。
 お互いに言葉もなく、頭上に疑問符を乗せたままでいると、その場にいる三人目が、しなやかに手を動かした。
「どうぞ、スピードワゴンさん」
 音も立てず、目的の品が載った器を手元へ運んでくれたエリナへ、スピードワゴンが咄嗟に顔を向ける。視線の先にある彼女は、普段と変わりない、たおやかな微笑をたたえている。ただそこには同時に、他者へ対する深い理解も満ちていた。
「エリナ」
「ジョジョ。スピードワゴンさんは、『ジャム』のことを、仰ったのよ」
 ことの経緯が掴めず、訝るように名を呼んでくる婚約者に、エリナがやんわり応じる。上向けられた手の平がそっと指し示す、木苺を砂糖で煮詰めた甘いものが、二対の強い視線を束ねて引きつける。どこにでもある全くありふれたものが、俄然、注目を集めることになった。
 好奇心と探究心に溢れた眼差しがエリナへ注がれるのに、そう時間はかからなかった。全てを承知した上で、淑女は相手を包みこむように、婉然と目を細めた。


「シェイクスピアの国とは申せど、言葉に訛りというものがあるのは、勿論ご存知でしょう」
 先日はジョナサンから首飾りの講義を受けていたエリナが、今度は自ら弁を振るう。その語りだしに、ジョナサンだけでなくスピードワゴンまでも熱心に聞き入る。目の前に自力では解けない謎と、解き方を知る人物が両方揃っているとくれば、その反応も道理だった。
「ヨークシャーとか有名だよね、あとロンドンのとか」
「ああそれ、思いっきりおれが話してるのですぜ……」
 エリナの言葉を受けて、名高い例を幾つか挙げてみせるジョナサンの隣で、身近なコックニー訛りの生ける教材がそろそろと挙手するのに、エリナは軽く頷く。
「地域により言葉が異なるというのは、誰しもが知るところです。けれどそれだけではなく、階級によっても少々、違いがあります。わたくしは短い期間とはいえ、病院にいましたから……様々な階級の方を見てきて、知ったのです」
 そうして、先程、問題となった品を再び眺めやる。
「果物の砂糖煮。ジョナサンはこれを『ジャム』と捉えますが、スピードワゴンさんは『プリザーヴ』だと考えられます。同じものですのに、名称が異なっているという例の一つですわ」
「うーん……」
「いやいや、流石にそりゃあ、たまたまってもんじゃあないですかい。同じイギリスだってのに、呼び方の違ってるもんが大量にあるだなんて、商売やってる連中なんか頭抱えちまいますよ!」
 明かされた答えを即座に飲みこむことができないのか、咀嚼という名の思索に耽るため、ジョナサンはおとがいに手を添えて考えこむ。そんな紳士をよそに、いくらエリナが言うこととはいえ、すぐには納得のできないスピードワゴンが異を唱える。
 承服しかねる二人を前に彼女は席を立つと、ぐるりと室内を注意深く見回し、素早く何かを見て取った。

 ゆっくりと歩みを進めたエリナは、室内にしつらえられた大きな姿見鏡の縁へ片手を添えてから、彼女を見つめる貴顕紳士らに向かって問いかける。
「お二人とも、これを何と呼ばれますか?」
「looking glassだよ」
「mirrorでしょうそりゃ」
 当たり前だ、とばかりにあっさり答えた二人は、それぞれの口から発された耳慣れない言葉へ意表を突かれ、思わず顔を見合わせる。ジョナサンは驚きに目を丸くして、スピードワゴンはぎょっと目を剥いて。興味や困惑がないまぜになった視線を交わす二人が、いよいよ口を開いて矢継ぎ早に問いを飛ばしだすのを封じるように、エリナは次なる品へ指を伸ばす。
 マントルピースの写真立てや花瓶の隙間に置かれていたトランプを手に取り、幾枚かめくってから、Jの文字が刻まれた目当てのカードを取り出して示す。
「それでは、こちらは?」
「ハートのknave、だよね?」
「ハートのjackです!」
 今度こそ声を揃えようと、目で合図を交わしてからジョナサンとスピードワゴンは名を呼び、そうして二つの名前がまたも不協和音じみて部屋に響く。一生懸命な二人のさまとは無常にも相反して、彼らの声は、ちっとも重なろうとしない。
 最初にエリナの言葉を聞いてからずっと思案気味で、ジョナサンは答えるのにもどこかためらいがちだった。しかし、その耳障りとも言える音の揺らぎに、脳裏を覆っていた雲が晴らされたのだろう。瞳へ急に一点の強い光を灯すと、瞬く間に表情全体を輝かせてゆく。対するスピードワゴンは、好奇心に火の点いたジョナサンとは対照的に、混迷と眉間の皺を深くするばかりだった。
 これで最後、と。エリナは三人で囲んでいた卓に戻り、そこへ並べられていた品々を幾つかまとめて持ち、掲げる。
「これらを、まとめて?」
 取っ手に白蝶貝の装飾が施された、風雅な意匠の匙や小さいナイフを認めて、青年たちは叫ぶ。
「cutlery!」
「silver!」
 願いをこめた勝ち鬨は、またも不恰好にもつれ、まざって。どこまでも噛みあわない音の残骸となって地に落ちた。

 とうとう二人は異論の向ける先をエリナからお互いへと変え、賑やかに意見を交わし始める。とはいえ、ジョナサンは楽しくてならない、とばかりに声を弾ませているのに、スピードワゴンは戸惑いのあまり頭を抱えてしまいそうだった。
「知らなかったよ、同じ対象を見ているというのに、こうも言葉が違うものなんだね!」
「いやでも納得できませんよ! 特に最後の! いくらおれに学がねえからって、食器の呼び間違いなんざありえねえ!」
「『カトラリー』のことかい?」
「『シルバー』でしょう! これに関しちゃあ、おれだって引けませんぜ!? どう見たって、銀器以外の何者でもねえですよ!!」
 まさに、二者二様といったところだった。それぞれに己が信じるものを拠り所として、譲ることなくぶつかりあう。ただ、どちらかといえば、一方的にスピードワゴンが熱く述べ立てているようではあった。丁々発止と言葉の刃も音高く切りあうより、自由に意見を吹き出させてそれを拾いあう談論風発、といったほうが近い風情だった。
 ともあれスピードワゴンには、銀器を銀器と呼ぶことの、どこに間違いがあるのかが全く分からないでいる。いくら言葉を交わそうと、ひたすら平行線を辿り続けてしまいそうな二人の間へ、エリナの声がやんわりと遮るように滑りこむ。
「スピードワゴンさん。ジョナサンにとって、食器が銀なのは、当たり前なのです」
 室内での、言葉を巡る短い旅を終え、再び椅子へ腰を下ろしたエリナは、少し考えこみながら次の言葉を探す。
「ええと、例えるのなら……そう。本が何で出来ているかというと、ごく僅かな例外を除けば、基本的には紙で間違いがありません。わざわざ、本のことを指して『紙の本』と呼ぶ方は、そういませんでしょう」
「うん、確かにそうだ」
 勉強熱心な聴講生のように、ジョナサンは目をきらきらとさせてエリナの説明へ耳を傾ける。しかしスピードワゴンの困惑は根が深く、余程適切な答えがもたらされない限りは、簡単に拭い去れそうもない。悩めるそんな青年へ噛んで含めるように、エリナはそっと理解の道を照らしてみせる。
「それと、同じですわ。ジョナサンにとって、食器が銀であるのは、ごくありふれたこと。わざわざ『銀』と名指しして呼ぶ必要が、ないのです。もしかすると、そもそも『銀』という素材のことさえ、あまり意識していないかもしれません。いかが? ジョジョ」
 水を向けられて、ジョナサンはふくふくと満足げに笑みを浮かべながら、エリナに頷いてみせる。その疑いようもない肯定に、ようやっと確かな答えを捕まえたスピードワゴンは言葉もなく、ぽかんと口を開けっ放しにするばかりだった。


 階級の差、というものを、青年はここしばらくのウェスト・エンド通いで、多少は理解していたつもりだった。それは目に見えないし、手にも取れない、香りすらない、けれど厳然と形なく存在するもので。確かに世界を上方と下方の二つに隔てているようだと、思ってはいた。しかし、その途方もない段差を自らが昇ることはできずとも、せめて見上げて学び取ることはできるとスピードワゴンは自らに言い聞かせていた。見通しが、甘かったと、思い知る。
 隣へ立つのでなく、彼の影のように控え、裏から出来うる限り支える。それがスピードワゴンの願いであり、本人はそれなりに為せていると思っていた。だが実際にジョナサンが住んでいる世界は、スピードワゴンの想像よりも、うんと雲の上にあるようだった。同じ国の同じ場所の同じ卓で、お茶をしているというのに、彼らの住む世界は青年が旅してきた異国の数々よりも遥かに遠く分かたれていた。
 いくら苦心に苦心を重ねて一歩ずつ進もうとも、支えたい背中には決して届かない。その事実を今更のように突きつけられた気がして、スピードワゴンはつい歯を食い縛りそうになる。暗黒街に生きてきた人間には、社交界に生きてきた人間の影になることさえかなわないのかと。たとえ血反吐を撒き散らすほどの努力をしたとて、絶対的な埋められない差を誇る、どうにもならないものは存在するのかと。
 すると。

「エリナは凄いなあ、まるで語学の先生みたいだよ!」
 宝物をみつけた子供のように双眸を煌かせて、ジョナサンは尊敬の眼差しをエリナへ送る。元気いっぱいの好奇心を大きな体から溢れさせ、うきうきと無心な笑みが咲き零れる。
「いつも使っている品であっても、色んな見方があるものなんだね! 様々な言い回しの違いなんかは、古文書にも通じるものがあるかもしれない、直訳だけじゃあ駄目ってことだ。解読技術の発展について、その柔軟な視点は参考になりそうだし、そうでなくとも面白くってたまらないや! ねえ、エリナ。もっと他に例はないのかい!?」
 どっと湧き上がる興味の赴くまま、椅子からやや身を乗り出してまで、エリナへ話をねだる。それだけにとどまらず、ジョナサンは隣のスピードワゴンにも、はしゃぎながら向き直る。
「色んな言葉を調べてみたいな、スピードワゴンも協力してはくれないか! きみなら、もっとたくさんぼくの知らない言葉を知っているだろう? お互いにあれこれ名前を呼んでみて、新しいものを探してみようよ!」
 今にもスピードワゴンの手を取りそうな勢いで、真っ直ぐに相手を見つめながら熱弁を振るう。そのさまにスピードワゴンは、思わず眉をへにゃりと下げてしまいそうになった。
 お人好しなこの紳士は、青年が地上から天空を仰ぐように終着点の見えない階段を見ているというのに、そこから全力で駆け下りてきてしまう。誰より長いその足で、地面に立つ人間を目がけて二つ三つと段を豪快に蹴り飛ばしてやってくるや、相手の手を握り屈託なく破顔する。足元の段差から解き放たれて、地面でも天上でもない世界へ、相手を引っ張りあげるようだった。
 足元を構成する上等な硝子の世界など、要らなければ蹴り砕いてしまえば良い、とばかりのさまだった。
 先程まで自分を捉えていた挫折感が、スピードワゴンは急にばからしくなった。一人で勝手に思い悩んでいようと、かの紳士の人柄はそれこそ太陽のようで、分け隔てなく全てをあまねく照らしてゆく。ジョナサンは、ちっぽけな段差など気にかけることなく同じ立ち位置へやってきて、相手を知ろうと笑いかけてくるのだから。
 学ぶことは、続けよう。そう、再度スピードワゴンは胸に誓う。ジョナサンの住まう階段の最上方に赴き、隣へ並ぶことはできない。けれどその下方で、死を覚悟するほどの努力を重ね続ければ、少しくらい成り上がることなら、いつの日かできるやもしれないと思って。もし叶わずとも、せめてこの高潔なひとの側にあって恥ずかしくない人間になろうと、激しいほど込みあげる感情の中で青年は祈りじみて願った。
 スピードワゴンは顔を歪ませるように、ぎこちなく笑うと、力強く言った。
「――おれで、お役に立てるのなら」
 その返事に、ジョナサンは嬉々として席を立つと筆記具を手に戻ってくる。早速ああでもないこうでもないと聞き取りを始めるジョナサンに、エリナが隣からなにくれと提案しては議論を活発にさせ、そこから更に考えを深めてスピードワゴンもあれやこれやと単語を挙げていった。
 三人の力を結集したお陰で、ジョナサンの手元にある覚書は次々と文字で埋まり、収穫は着実に数を増していった。こうして気軽なお茶の場を即席の研究室に変えて、タウン・ハウスの午後は今日もいつもと変わらず、穏やかに暮れてゆく。

 後日、ミューディーズで偶然とある書籍をみつけたジョナサンは「この分野に関しては、既に先駆者がいらしたよ」と借りてきた音声学の本を手に、家族や友人の前で笑った。





『二月の花嫁まもりゆく星に連なるトワレット』

 ようやく本題に入った、という矢先だった。
 肩書きや遺産といった継承に関すること、それから再興への道程に、身の処し方など今後の方針。実行に移されたこれらの事項は、それぞれ納まるところへ納まった。
 そうして。これまででさえジョナサンを支え続けてくれたエリナに対して、最も大切な、そして重要な話を、若きジョースター卿が切り出して、すぐ。エリナは最愛のひとを真っ直ぐに見上げ、莞爾と微笑んだ。物柔らかな露草の瞳に、揺るぎない決意をたたえて。
「黒にしようと思いますの」
 数ヶ月後の花嫁は、己のまとう衣装について、そう言い切った。


 いつの間にか、すっかり当たり前となってしまった、ジョースター家タウン・ハウスにおける三人のお茶会。山積していた厄介事たちも、数人がかりでやっつけられて息も絶え絶えとなった頃合いで、卓を囲みながら、いよいよジョナサンが婚礼について口を開いた。
 自分の身や立場が定まるまでは、と。この話題については控え続けていたジョナサンであったけれども、とうとう具体的に触れる時がやってきた。ずっと堪えていたこともあり、穏やかな口調で日取りや都合について語る間にも、密かな昂揚は押さえきれないらしく、うっすらと頬を染め始めていた。
 そんなジョナサンの提案に対して、エリナが最初に応じた言葉が、先のものだった。
 思いもよらない花嫁候補の希望に、花婿候補は目を大きく真ん丸にし、その付添い人候補筆頭は顎が外れたほどに口をあんぐりと開く。彼らの反応も心中も、エリナは最初からある程度予測していたのだろう。彼女はこの場にいる誰よりも落ち着き払った様子で、淡々ともう一度、間違いがないよう重ねる。
「花嫁衣裳は、黒にしようと思います」
「な、エリナさん、そんな……!」
 発言の衝撃があまりに強すぎたのか、空気を求めてあえぐ魚のように口をぱくぱくとさせながら、スピードワゴンがうめく。しかし、やっとのことで漏らしたそれすら、ろくに言葉の体をなしておらず、未来の花嫁が発した願いに青年がすっかり動揺しているのは明白だった。
 目の前のふたりはこれから輝かしい未来を歩むに違いない、と信じこんでいるスピードワゴンにとって、エリナの求めるものはとんでもなく不吉に思えた。光差す道へ自ら暗い雲を呼び寄せ、塗り潰してしまうような。まるで災いの先触れじみた色を求めていると、スピードワゴンには映ってならない。
 一方のジョナサンは、水鏡のように凪いでいた。エリナが向けてくる、決してそらさない視線を真正面から受け止めて、同じように投げ返す。あたふたとうろたえるスピードワゴンの前で、ジョナサンは彼女へ、ゆっくりと声も返した。
「理由を、聞かせて貰えるかな」
「はい」
 ジョナサンがいつも浮かべている闊達な笑みも、さっき頬に差したほのかな色も、いつの間にやら面の奥へしまいこまれている。表情を強張らせているのではなく、ただ真摯に、純粋に、相手の返答を待っている。己の愛する女性が、ただの気紛れでそんなことを言うはずがないと、信じきっているがためだった。
 エリナもまた、ジョナサンが問いかけてくるだろうと信じていた。特に言い交わすことがなくとも、お互いに深く愛を寄せあっているからこそ放てた言葉だった。その信頼と深愛に応えるため、エリナは用意していた訳を伝えようと、小さく息を吸いこんだ。

「服喪期間に婚礼があった場合、その花嫁は白をまとうことが、慣例としてできません。わたくしはこれから、ジョースター家の人間となるのです。ならば、わたくしもあなたと同じく喪に服し、式に臨むべきだと考えました」
 喪に関する儀礼、特に女性は制約が多いもので、ドレス・コードの規定は非常に細かく決められている。エリナが口にしたのもその中の一つで、誰もがよく知るものを彼女は改めて語り、己の根拠として示す。
 定められた決まり事の中へ、エリナ自身の解釈が含まれてはいても、彼女の願う話にはきちんと筋が通っていた。しかしその内容に、ずっと無言を貫くジョナサンの横で、ようやく滑らかな舌を取り戻したスピードワゴンが悲鳴まじりに叫ぶ。
「た、確かにジョースターさんの家は、まだ喪が明けてないけどよお。ペンドルトンの家は問題ないじゃあねえですか!」
「ええ。けれど、わたくしは、まだジョースター家の人間でないとはいえ、このタウン・ハウスで幾日も過ごしてきました。思い出の満ちる屋敷の中で呼吸をし、記憶を秘めた様々なものにも、触れてきました……そうすることで、亡きお父様やお母様に対して、娘のような思慕や敬愛の情を抱いてしまったのです」
「だとしても! せめて灰色にしちゃあ!」
「ジョナサンの喪章は黒ですもの」
 どうにかスピードワゴンが捻り出した代替案も、喪の慣習に適っているものだったが、エリナは決然とかぶりを振る。いくら食い下がられても、彼女は信じるものを曲げようとはしない。ただ、お節介焼きを自負する青年が、親身になって必死に心を砕いてくれているのは、こそばゆいほどありがたいことだった。
 眉尻を下げ、目に見えておろおろと心配しているスピードワゴンへ、エリナは深い感謝をこめて柔らかく微笑んでから、きっ、とジョナサンを見上げる。意固地だと呆れられているかもしれない、という僅かな不安は胸の内ではっきりと鎌首をもたげ、まとわりついて離れない。それでも彼女は譲れないものを抱いていたから、覚悟を決めて、訴える。
「わたくしも、悼みたいのです。あなたと共に。あなたの、大切な方を」

 短く、鮮烈な願いを、切々とエリナは伝える。
 ここまで、ひたりと相手を見据えたまま、ジョナサンは一言たりとも聞き逃さまいと耳を傾け続けていた。その瞳は一度として彼女からそらされることがなく、そのため今も、彼へどこまでも寄り添おうとするエリナの堅固な意志を体の正中で受け止めていた。
 しなやかで強い花嫁の決意に揺り動かされてか、沈黙を守り続けていたジョナサンが、そろそろと、やっと口を開いた。
「……エリナが、ぼくの家族のことを、我が事のように思ってくれるのは、とても嬉しいよ」
 丁寧に言葉を選び、選んで、ぽつりぽつと落とされる声は、どこか重々しい。エリナの願いは花婿にとって非常に胸を打つもので、ある種、花嫁の高潔なさまに誇らしさをおぼえてもおかしくはないほどだった。だからジョナサンは相手の意見を尊重し、喜んで、受け入れようとしている。
 ところが、次第に彼の顔は緩やかに俯いて、斜め隣にいるスピードワゴンからは、その表情が伺えなくなる。差し向かいに腰を下ろしているエリナも似たようなものらしく、ジョナサンが彼女からゆるゆると視線を外してゆくさまに、軽く目を見張った。
 しかし卓を囲む残り二人の反応に気づいた様子もなく、ジョナサンは訥々と続ける。
「そこまで、気にかけてくれているだなんて、思ってもみなかった。ありがとう。どうか、きみの願いは、思うままにして、ほしい。エリナだったら、どんな色でも素晴らしく着こなしてしまうだろうし、ね。ほら、黒は、女性を美しく見せる色だと、聞いた、ことが……」
 本人は、すらすらと話して歓迎を表しているつもりなのやもしれない。しかしやがて声は力なくしぼんでゆき、とうとう途絶えてしまうと、僅かに身を乗り出したエリナが小さく「ジョジョ?」と案じるように名を呼ぶ。
「――でも」
 噛み締めた歯の隙間から漏れ出すように、ジョナサンが呟く。大きな拳が無意識のうちに膝の上できつく握られ、それに伴ってジョナサンの肩が微かに震えていることへ、スピードワゴンはやっと気づいた。
 ジョナサンが深愛と親愛をそれぞれ向けている二人が見守る前で、未来の花婿は勢い良く顔を上げた。
「ぼくはッ、エリナの真っ白なドレス姿がみたい!!」
 頬を鮮やかに紅潮させて、どこか泣き出しそうな風情すらまとった顔がエリナへ向かって吠えた。やや潤んでさえ見える眼差しに射抜かれて、エリナは白亜の塔のようにそびえていた己の決意が、ニワトコの小枝じみて容易く、ぽきりと折れる音を聞いた。
「―…ああ、ジョジョ。ジョジョ」
 幼い子供を諭すように、また実際、ジョナサンの大きな体の中にまだ息づいているであろう小さな彼をいたわるように、エリナはたおやかに微笑んだ。
「分かり、ました。白に。いたしましょう」
 そう答えるエリナの表情もまた、うっすらと水蜜桃に上気し、涙をにおわせる泣き笑いのさまだった。

 この世でただ一人、彼女の花婿たるひとをこうも悩ませてしまい、申し訳なさと愛しさで胸が溢れそうになる。エリナの中でとぐろを巻いていた不穏な蛇は、あっけなくその場を追われた。
 一方のジョナサンは、エリナが了承の声を発するや、雲間から照り輝く太陽が燦々と顔を覗かせたように、弱り顔を瞬く間に晴れ渡らせていった。彼は思わず歓喜の声を上げると席を立ち、卓を回ってエリナのもとへ駆けつけて、そう遠くない未来の花嫁を抱き締めた。しかし、これでも爆発してしまった喜びを表しきれないのか、座った体勢の彼女を自分の腕に軽々と抱き上げ、勢いの乗ったままその場で回りだす。
 足の運びも手の添え方も、てんで作法を無視した舞踏でジョナサンは軽快に立ち回り、驚いた顔にも微笑を刷いたエリナの裾は優雅に翻る。
「ああ、良かった! 本当に良かった! これでもう何も心配はないよ!」
「わたくしの我侭で、困らせてしまってごめんなさい」
「そんなことないさ! だってきみは、ぼくの家族を大切に思ってくれただけなんだから。さあこれで、やるべきことがまた山積みになるよ! 式が終わるまでも、終わってからも、ぼくはきみとたくさんのものを見たいんだ。どこへ行こうか、クリスタル・パレス? エジプシャン・ホール? そういえば、暖炉の縁もあってモーガンさんの家からお招きを受けているけど、あの家には随分と話上手で評判のレディがいらっしゃるそうだよ。是非、拝聴してみたいな! ああ、コヴェント・ガーデンや、ウェストミンスターのロイヤル・アクアリウムもいいね! オムニバスに乗って行こう、一緒に!」
 胸のつかえを盛大に吐き出してから、ジョナサンは喜色を満面に溢れさせて饒舌に語る。エリナの恐縮など簡単に吹き飛ばして、興味をそそる場所たちを思い浮かぶままに次々と挙げて、未来の展望をきらきらと彩ってゆく。その計画の傍らには、当然のことながら最愛のひとが常にいる。
 なおも昂揚のおさまらないジョナサンが、なおもエリナと共にくるくると回転しながら熱っぽく語るのに、慌ててスピードワゴンが口を挟む。
「ジョ、ジョースターさん! オムニバスなんて乗合馬車を使わなくたって、あんたは自家用のを持ってるでしょう!」
 貴族があんなのに乗ってるところを見られたら、と世間の目を気にする青年へジョナサンは「構わないさ! だって、あそこの屋根席から見るロンドンの景色が一番だって言うじゃあないか!」と明るく笑い飛ばす。
 ひとしきり感情をほとばしらせて一区切りついたのか、ジョナサンはようやくエリナを恭しく腕から下ろした。彼女の爪先が無事に床へつき、エリナが裾を整え始めるのを確認すると、ジョナサンはいつの間にか詰めていたらしい息を、満ち足りた様子で長く落とす。
 そうしてお互いに落ち着いてから、ふたりは真正面から改めて向きあい、ジョナサンは穏やかにはにかむと、硝子細工を扱うように繊細な所作でエリナの手を取る。
「ぼくと、共に歩んでくれるかい?」
「ええ。いつまでも、あなたと共に」
 囁きじみて放たれた問いに、これ以外の答えはないとばかり、エリナは口にする。色味の異なる青い二つの眼差しが重なりあって、瞳の中にそれぞれの姿と共に、同じものを映す。
 二月の花嫁と花婿は夢を見て、夢を叶えて、ふたり揃って微笑み交わした。







 体へ伝わる揺れの形が変わった。
 ぼんやりとした半眼で、何とはなしに考えへ耽っていたエリナは、僅かな振動の違いに意識を奥底からゆるゆると呼び戻した。港に近づいたのだ、と思い至ると同時に、それを裏づけるように船体の軋む音が響く。椅子に腰かけたまま、船窓から何を眺めるでもなく眺めていたエリナは、岸壁に集う人々を視界に入れる。
 誰もが誰かを心待ちにし、彼女の乗る船を待ち望んでいた。そこにあるのは期待でもあり不安でもあり、表情は様々であったけれども、結末はどうあれ船のもたらすものに焦がれているのは共通している。そして恐らく、船が持ってくるものの大半は、喜ばしいものなのだろう。帰ってくる船は夢を叶えると、古いことわざにも記されている。竜骨の蹴立てる波の音にも負けず、その狭間から遠く聞こえてくるものは、彼女には歓呼としか思えなかった。皆、幸福に満ち溢れていた。
 そんな中。湧き返る賑やかな群衆に似つかわしくない、黒い手袋と、帽子に黒い喪章をつけた人物を彼女はみつけた。露草の瞳が、一瞬、引きつったように見開かれる。その青年は心労のあまりか頬がややこけ、顔色も良いとは到底言えない様子で、酷く面を強張らせている。エリナが非常に、よく知る人物だった。彼女を待ち侘びている人間が、いた。
 船室に据えられている小さなベッドから、ふと幼い声が上がった。すやすやと眠っていた赤ん坊が、夢の中で何かと出会ったらしい。幼子の声で我に返ったか、エリナは立ち上がると下船の準備を始めた。彼女の傍らで、赤ん坊は何事もなかったように再び、甘い寝息を立てていた。
 まとめる荷物もさほどないため、彼女はほどなく、身支度にかかる。裾を整え、帽子をかぶり、最後に確認をしようと鏡の前に立つと、己の姿をまじまじと見つめる。そこでエリナは、ようやっと気づいた。
(ねえ。ほら、ジョジョ。やはり)
 手袋に包まれた指先が、船の所為だけでなく微かに震えながら、帽子の縁に寄せられる。
(わたくしには、黒、でしたわね?)
 引き上げられていたヴェールが下ろされ、彼女の見ていた世界は薄い紗の向こうに覆われた。そして世界の側からも、ぎこちない微笑の形を取った唇が喪の装いに隠されて、消えた。
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