とまり木 常盤木 ごゆるりと
ひねもすのたのた
手にしてほろほろ崩れゆく、からの逆回しで組み立てて
確実に観に行く予定、というわけでもありませんが。
何となく、予習気分で思い出のマーニー読了しました
いままでよんでなかったのか、という話ですけれどね。
や、でも久し振りに児童書に触れましたが、良い作品でした……。
機会をくれたというだけでも、映画に感謝です。
児童書を読んで落涙したなんて、いつ以来なのやら。
あまりに胸を打たれたので、ちょこちょこ感想をまとめてみましょう。
例によって例のごとく文章に脈絡がありません。
思いついたことなどをぽこぽこ書いているだけです。
映画も控えておりますし、ネタバレ回避に、続きへ格納しておきます。
しかしこれ単なるひとりごとなんじゃあ……?
マーニーよりも自分の再構築のこと考えてるような。
そもそもこれ、明確なネタバレなのかどうか異様に分かりにくい予感が。
何となく、予習気分で思い出のマーニー読了しました
いままでよんでなかったのか、という話ですけれどね。
や、でも久し振りに児童書に触れましたが、良い作品でした……。
機会をくれたというだけでも、映画に感謝です。
児童書を読んで落涙したなんて、いつ以来なのやら。
あまりに胸を打たれたので、ちょこちょこ感想をまとめてみましょう。
例によって例のごとく文章に脈絡がありません。
思いついたことなどをぽこぽこ書いているだけです。
映画も控えておりますし、ネタバレ回避に、続きへ格納しておきます。
しかしこれ単なるひとりごとなんじゃあ……?
マーニーよりも自分の再構築のこと考えてるような。
そもそもこれ、明確なネタバレなのかどうか異様に分かりにくい予感が。
冒頭を読んでいてうっすら何かを思い出すなあ、となって。
あとがきに辿り着いてから、ああ、となりました。
無気力そうな(ように見える)子供が田舎へ向けて旅をしている。
ランタン丘のジェーンも、こんな風でしたね。彼女は船でしたが。
訳者さんは『この出だしは日本の読者にとっつきにくいのでは』
と心配していらっしゃいましたが。
きっと、大丈夫ですよ。
物憂げな子供が黙りこんでの旅路。境界線の真上で揺らぎながら。
その心情へ緩やかに共感を抱くような子供なら、分かるはず。
読んでいて、ちょっと意外だったのですよ。
あまり英国児童文学らしからぬ雰囲気だったので。
際立った幻想寄りではなく、かといってナンセンス寄りでもない。
一番近い空気だと思ったのはカニグズバーグ作品でした。
後になって調べてみましたら、同時代で大変納得しました。
マーニーが1967年で、クローディアが1968年みたいです。
決して古い作品ではないからでしょうね。空気が似ているの。
児童書で50年くらいなら、若い部類に入るでしょうし。
確かにマーニーには、水や草いきれ、自然の情景が多く入ります。
けれど肺の奥まで、むせ返るほどの濃厚さではなく、あくまでさらりと。
自然よりも重点を置いて描かれるのは人間の内面。
クローディアの場合だと、そのあたりは特化していますね。
カニグズバーグの都会的で洗練された文体が、無類の説得力を誇ります。
複雑に入り組んでゆく子供の心情へ丁寧に触れてゆきます。
文体そのものと、作品中に出てくる理解ある大人の手によって。
理解ある大人、という存在。
わざとらしくなく。媚を売るでもなく。ましてや押しつけがましくなく。
子供に無理を強いて内側を引きずり出そうなどとしない。
ごく自然体で、子供を信じ、さりげなくも自信を持って愛を注ぐ。
そんな大人。
多分、自分の中にいる子供の存在を知っている人。
自分が幼かった頃をおぼえていて、いまもなお一緒に生きている人。
ミセス・リンゼー素晴らしかった。
「ね、だから、あの錨は、やっぱり、あなたのものなのよ!」
という彼女の台詞に、思わず涙が零れたのでした。
また出番が少ないながらも、抜群の存在感だったミスター・リンゼー。
彼も僅かな台詞や挙措だけで、この上なく惹きつけてくれました。
端々から溢れる、子供への理解と信頼とそして愛。
静かな、淡々とした眼差しで子供を見据えていたのでしょう。
待つ、ということを知っている人。
読んでいて、ぼんやり思いました。
わたしのお話には、殆ど大人が出ませんでした。
むしろいませんでした、というレベル。
書けなかったのでしょうね。たぶん。
わたしの世界に大人は要らなかったから。
けれど……。
どうして皆が同じような夜を過ごすと思っていたのかしら。
その気になれば、天井を蹴破ることだって、できるのに。
再構築の過程で、見落としていた、抜け落ちていたものに、気づいたような。
すこん、と胸に落ちた気がします。
大人も、恋も、人間も、わたしろくに書いていなかったのですね。
書いたことのないものが、なんて多いことでしょう!
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