とまり木 常盤木 ごゆるりと
ひねもすのたのた
『鏡よ鏡、彼方はどこへ』
お話書けましたー。わーい。
これでやっと、書きかけが一つ片付きました。
前々からやいやい言うておりました、新世界なお話。
拙宅ではなぜか仲良し設定な仁さんとシオンさん。
そのお二人が、仲良くなった切っ掛けなお話です。
プレイ当初から、ずっと気になっていたことです。
やっと形にできて、やれやれです。
ただ書きかけ放置のブランクが長かったものですから。
あと、かわいいおんなのこが書きたい衝動に駆られてもいたので。
普段と少し、雰囲気が違うような気もします。
少女漫画ですか。これが少女漫画ですか。
取り敢えず書き終えてから。
「……これ別に最初から仲良しじゃない?」と思いました。
切っ掛けもへったくれもありませんね。
まあ前置き長いのもあれですし、お話は続きに置いています。
いつもにまして自信がありませんが、よろしければどうぞ。
あ。もしも。
「ははあ、この話はこの部分で一旦途切れたな……」
と、お話の継ぎ目を見抜かれた方がいらしたらご一報ください。
一応がんばって調整はしたのですがー!
と。お話の前に。
シオンさんからの呼称表記についてお教えくださったKさま。
お陰で見直しが快適に進み、早く仕上げることができました。
このような場所で申し訳ありませんが、本当にありがとうございました!
さて。あと今回のお話の、根っこを一つ、書いておきましょう。
ネタバレな気もするので、反転で隠しておきますね。
読了後にでも、引っ繰り返してご覧ください。
根っこというか趣味というかただのシャウトですが。
わたしは! 鉄拳5仁さんカスタマイズの!
ストレェトヘアーが! だい! すき! です!!
シャウト以上です。つくづく本能に正直ですね。
お目汚し失礼しました。では、続きからはじまりはじまりです。
『鏡よ鏡、彼方はどこへ』
恐がられているのだと思っていた。
現在、周囲で緩やかに展開しつつある状況に身を任せながら、彼はそんな言葉を淡い困惑と共に胸の内で繰り返していた。
確かに、柔和な顔つきだとはお世辞にも言えないと自分自身思っていたし、今まで歩んできた道のお陰で、饒舌なんて言葉とはつくづく縁のない口数だとも知っている。だから例に洩れず、恐がられているのだと、てっきり思いこんでいたのに。
誰かが彼を呼ぶたび、彼の名を口にするたびに、その人物はびくりと緊張してみせた。その呼び声が、どれだけ明るく、屈託のないものであろうと、傍目にも明らかなくらい体を強張らせてしまう。普段は穏やかで、生真面目で。大人数ゆえに山積してしまう細々した雑務を、率先してこなしてしまう人なのに。彼の名前が響くたび、反射のように顔や体中を硬直させていた。ある時など、彼の名前が聞こえた際に食事の後片づけをしていたため、手にしていた皿を床に落とし、ぱりんと割ってしまったくらいだった。これだけの状況証拠が揃えば、やはり恐がられているのだな、と彼が判断しても無理はない。
とはいえ不可解な点が、なくはなかった。おかしなことに、呼ばれるのが彼の名ではなく姓だと、件の人物は平然としていた。反応するのは下の名前においてだけで、上の名前にはてんで無反応なのだから。それだけはどうにも腑に落ちなかったが、結局、彼は納得してしまっていた。風間仁は――恐がられているのだと。
そう。思っていたのに。
ことの起こりは、ほんの数分前。最早どういう分類に当てはめて呼称すべきやらわけわからない状態に陥っている、しっちゃかめっちゃかとしかいいようのない集団。なんだかんだと世界を渡り歩くうちに、目指す先は幻想界のジョイラントということになった。艦を下ろすため、着陸地点を探す少しの間、仁はゲゼルシャフト号の洗面所にいた。
ばしゃばしゃと髪に水を含ませ、目の前にある鏡を見ながら乱暴にがしがし手ぐしで梳いてみる。しかし、幾ら水をかけようが、撫でつけようが、彼の髪は見事にいつもの形状を保ったままだった。多少覚悟はしていたものの、いざ目の当たりにすると、つい小さく、諦めの溜め息が漏れてしまう。
自分でも子供じみているな、とは思う。だが異世界に来てからというものの、妖艶な夢魔には「その髪型だと性格悪くなるわよ」とあだっぽく忠告され、更に腹立たしいことに誰とは言わないが「あの男に似ている」などと、周囲から言われっぱなしでいる。特に、後者に関しては、彼にとって大変不本意極まりないものだった。なので、その評価を断固としてはねのけるため、絶対に似てたまるものかという意志表示として、髪型を変えようと試みてみたのだが。
生来のくせっ毛は、ほんのりしんなりしただけで、清々しいほど変わらない形を維持している。全くもって認めたくないが、改めて遺伝という単語の意味を実地で思い知らされ、苦渋の吐息を落とすと、彼は口元を引き結んで鏡の前を後にした。
彼女に出会ったのは、そんな時だった。
「どうしたんですか、風間さん!? ずぶぬれじゃないですか!」
洗面所の扉をくぐるとすぐ、廊下からすっとんきょうな声が飛んできた。まさか誰かに会うとは思っておらず、内心驚きながら目を向けると、声の主は『自分を恐がっているのだろう』人物、シオンだった。
いや、これは、と理由が理由だけに、そして相手が相手だけに、説明すべきか否かと口ごもる僅かな間にも、彼女は仁の元へ駆け寄ってきていた。そうして今もぽたぽたと雫を垂らしている、ぬれねずみな仁を、いたわるように見上げてくる。そのいかにも心配そうな眼差しに、また物怖じしない常盤の瞳に、恐がっているさまなどは見受けられなかった。ただひたすらに、彼を案じていることだけが見て取れた。
そういった感情を真正面からぶつけられることなど、ここ暫く体験していないものだったから。彼は思わず正直に、応じてしまった。
ぽたり、ぽた。
雫で床を濡らし、服を湿しながら。照れや気恥ずかしさに襲われることもなく、気圧されたわけでも勿論なく、真摯な瞳に真摯な言葉で返そうとして。ちょっぴり子供じみた行動の理由が、ぽろりとまるい水滴のように零れ落ちる。
そうして返ってきたのは、からかいでも笑い声でもなく、やわらかく蕾がほころんでゆくような婉然たる微笑だった。
ちょっと待っててくださいねと言い残し、軽やかな足音を立てて走り去ると、数分も経たずして、目をきょとんと見開いている仁の前へ、魔法のように何処からともなく白いふわふわのタオルと櫛を手にして現れた。恐らくは、もうこの艦の倉庫やら棚の中身やらを把握しきっているのだろう。そして彼が「何を」と訊ねる間もなく、シオンは笑顔のまま仁の袖を引っ張って、さあさこっちですとすぐ側にある食堂まで連れて行き、椅子の一つに腰掛けさせた。
そうこうしている間に始まったのは、シオンの手による丁寧なブラッシングだった。
*
で。現在に到るわけなのだが――正直、彼はなんとも不思議な気分だった。てっきり恐がっているものだと思いこんでいた相手が、親しげな微笑をたたえたまま背後に立って、自身の髪を梳いている。その姿からは、いつも彼の名を聞いて緊張しているさまなど、なかなか連想できない。だが実際にシオンはいつも、彼の名前を聞くたびにおののいていた。そうでなければ、あの身の強張らせ方について説明がつかない。しかし、だとしたら、現状はどういうことなのか。
胸の奥に浮かぶ疑問符は、あぶくじみて、ぷかりぷかりと生じるばかりで打ち消すことができない。だがシオンは仁の静かな戸惑いに全く気づかず、さも楽しげに櫛持つ手を動かし続ける。しかも、何気ないお喋りまでしながら。
「手ぐしだけじゃあ、駄目です。きちんと櫛を入れないと。髪が痛みますし、何より、ちっとも綺麗にまとまってくれませんよ?」
「いや、今まで髪には無頓着だったんだ」
「ふふ。なら、なおさらです」
くすくすと柔らかな笑い声を立てながら、様々なことを話しかけ、その間ちっとも手を休めようとはしない。気の利いた、とは言いがたい仁の相槌にも、シオンが気を悪くした様子はなかった。彼女が口にするのは、他愛のない話ばかり。仁の髪はくせっ毛のようだから、きちんと櫛を当ててやらないと、とか。モモちゃんやKOS-MOSの髪もよく梳いたりするんですよ、とか。優しい声と優しい指が、するするゆっくり、くしけずってゆく感覚は、心地良くも何処かこそばゆい。けれどもやっぱり、快く。体の奥底で硬く凍てついていたものが、ふうわりと春の吐息で、その表面を僅かに緩ませてゆくようだった。
が。せっかく氷解の兆しが見えたとしても、その中心には依然として、がちん、と留まり続ける疑問の塊。気難し屋の万年雪は、疑問符をうんと凝縮した状態のまま、仁の中に鎮座し続けていた。せっかくこうも、しなやかな指がそっと触れてくれているというのに、胸に残り続ける歪な感覚は、どうにも消え去ってくれそうにない。
だから仁は、一瞬迷い、口内にとどめた言葉を舌の上で転がしてから、やはり出すことに決めた。相手に対して、ある意味失礼とも取れる質問ではあったけれど、何だか言えてしまうように思えた。彼自身にもよく分からないが、先程、思わずぬれねずみの理由を話してしまったのと同じように、すんなり素直に、飾らない言葉で。
無理に抑えこまれていたものが、ぽろん、と自然に落ちてくる。
「あんた、俺を恐がっていたんじゃないのか」
あまりに、と言えばあまりにもな問いかけに、慣れた手つきで髪を梳いていたシオンの動きが、ぴたりと止まった。親しげに触れてきていた指も、櫛も、すっかり停止してしまう。この反応はある程度予測していた仁が、この隙に振り向いてみると、彼の目に飛びこんできたのは、眼鏡越しの瞳を丸くして子供のように目をぱちくりさせているシオンの姿だった。けれど、やはり。彼女の表情に、怖れや怯えといったものは、どうしても見当たらない。相変わらず、その反応が何を示しているのか判然としない。一体どう解釈すれば良いのかと、仁が考えこみかけると、漸く時間が流れ出したのか、シオンの唇がゆっくりと動きだした。
「どうしてですか?」
逆に質問を返されて、やや面食らってしまいそうになる。心底から不思議そうに、何がどうなったらそんな考えに到るのかしら、とでも言いたげに、純粋な疑問がこめられている。櫛を片手に小首を傾げて、それでも視線は真っ直ぐに問うてくるものだから。最早ためらう気持ちさえなくなって、仁も真っ直ぐ見返すと、とうとうかねてから抱いていた疑問の根っこを、ずばりと解き放った。彼女の瞳の只中に、鋭い眼差しをした自分をみつけた。
「俺の名前を聞くたびに怯えていただろう」
「怯え……?」
「体を、強張らせていた」
「え……」
恐れの対象である張本人が、いくら説明してみても、やはりシオンにはどうも合点がいかないようだった。何のことなのか、さっぱり糸口が掴めないでいるらしい彼女へ、とうとう仁は最後に、渾身の一矢を放つ。
「”仁”と、聞くたびに」
「!」
瞬間。シオンの常盤色をした双眸が大きく見開かれ、虹彩は細く引き絞られた。鋭い矢じりが的の中央を射抜くのと同じに、その名が、彼女が内に秘めた小さな星を過たず貫いたようだった。
その言葉の効果は、目に明らかだった。口にした途端、目の前で起こった劇的な変化を、仁は後々まで鮮やかに思い出すことができた。表情は、驚愕のあまり真ん丸になってしまった瞳と、声もないまま薄く開かれた唇がやや目立つくらいで、特に大きくは揺らがない。特筆すべきは、その顔色だった。
ほんの短い仁の発言で、彼女の顔色は、夜明けを早回しにしたようになった。僅かな時間で彩りを、濃淡を変えてゆく空そのものに。青藍の朝へ朱鷺の風切り羽色をした最初の曙光がさして幕が上がり、淡い桜から上気した水蜜桃、つややかなさくらんぼを経て、やがてほれぼれするように見事な完熟林檎へと到達した。
早い話が、真っ赤になったそのさまに、仁は夜明けと同時に『沸騰』という言葉もまた思い浮かべた。
「ち、違っ…、違います! 風間さんが恐いだなんて、そんなことはないんです!!」
「しかし……」
感心してしまうほど赤い顔で、熱いお湯にぐらぐらゆだってしまったようなシオンが、やっと我に返ったらしく慌てて弁明を試みる。けれどまだ、とても論理的とはいえない言い分に、仁は訝しげな反応を示してしまう。別に彼女が嘘をついている、などと思うわけではないが、だとしても全体的に釈然としないことばかりだった。怯えているでなし、恐がるわけでなし、本人もまたそう証言する。だがあの態度は……と、やもすると再び沈黙のうちに考えこんでしまいそうな仁に向かい、シオンは必死に言葉を尽くそうとする。
「違うんです、本当に……ええと、それは、その」
きっと、冷静に、冷静に、と自分へ言い聞かせながら、適切な説明を探しているのだろう。しかし落ち着き払って理性的になって、訴えようとするも、言葉は熱でぶちぶちと分断されてしまう悪いパスタのように切れ切れのものしか捕まえられず、段々と息まで詰まりそうになってしまう。やがて諦めたか、シオンは重々しい溜め息と重々しい深呼吸を一つずつ、してみせた。
深い、深い、呼吸音が、遠くで唸る鈍いエンジン音が聞こえるだけの、しんとした場へいやによく響く。この中途半端な静寂が、肺から押し出された熱をも、ゆるゆると奪ってくれたのやもしれない。動悸が鎮まり、平静をそろそろと取り戻したシオンには、新たな大気が胸に満ちるのと同時に、覚悟もまた満たされたようだった。
片手を胸元のペンダントに添えて、腹を括ったシオンが顔を上げる。顔色も随分と落ち着いて、苺ミルクくらいにおさまっている。それでもまだ、風呂上りのような彩りであることに間違いはなかったけれど。両の目にはくっきりと、引かない決意が表れていた。
いつの間にか居心地悪そうに閉ざされていた唇を、ゆっくりとためらいがちに、大変言いにくそうに押し開く。
「―…兄と、同じ名前、なんです……」
手近な椅子に腰掛けて、体ごと向き直った仁と相対する。こうなると最早、髪がどうのこうのは二の次だったし、お互いこちらの説明が優先なのは暗黙の了解だった。それに大元の理由が一つ明かされただけでも、仁にはかなりの収穫だった。いかなる原因で兄と同じ名に拒否反応を示すのかは不明でも、『身内に対する複雑な感情』ということに関しては、仁にも痛いほど身におぼえがあるため、理解が容易い。
身内、という言葉を脳裏に浮かべるだけで、いつの間にか眉間に皺を寄せてしまう仁のさまを別の意味に解釈したか、シオンが観念したように重い口を動かした。
「兄が……いるんです。住んでいる場所も、年も離れた……ただ一人の、家族です」
一言一言を迷いながら選び出しているようだが、どれもこれもがひどく弱々しい。その中の『ただ一人の家族』という言葉に、仁はひそかにちくりとしたものをおぼえたけれど、その感覚は僅かに彼の眉をひそめさせたに過ぎなかった。
やや目を伏せ気味にして、緩やかに説明を重ねてゆくうちに、なぜか突然シオンの声がぴたりとやんだ。言葉を選びかねた一瞬の間の後、ややへの字になっていた唇から、核心が勢いよく転げ出した
「……その兄が、どうしようもないんです!!」
腹の底から絞り出したような、奇妙なほど感情がこめられた声音に、仁がちょっと目を見開く。そもそもの話として、彼女がこうも感情的な言葉を発するのを、初めて聞いた気がする。こんな、やや声を荒げている、と言ってしまっても良いくらいの口振りなど、耳慣れない。確かに、たまに同行のアンドロイドをたしなめるように軽く叱るのは、見たことがある。けれど同じく同行の少女や、他の人々に対しても、シオンは常に優しげで穏やかだった。そんな彼女が、抑えきれない思いをほとばしらせるように声を発するとは、想像もしなかった。
しかも、いつの間にか膝の上で両手を固い拳にして、次々と明かされるその理由が。
「ちっとも定まった仕事に就く気がなくって! 一人暮らしでふらふらしていて! たまに通信入れてくると思ったら、常に小言ですよ! むしろ心配してるのはこっちなのに、そんなことお構いなしで、自分の言いたいことだけ言うんですから!!」
今度は先と異なる理由で、また徐々に頬の血色を良くしながら、シオンはぶちまけるように言い募る。あまりの剣幕に、少し仁があっけに取られたくらいだった。けれどただ一人の家族に対し、あらん限りの不満を述べるシオンのさまは、彼には何となく、信頼の裏返しめいて感じられた。
信じている相手だから、違うと不満をぶつけることができる。仁の場合は、もう色々とそれ以前の問題であったから。だから、普段の才媛さをかなぐり捨てて、子供のように唇を尖らせてまくしたてるシオンのさまに、なんだか、口の端が僅かに緩みそうになってしまう。
「しかも、本なんてものを集めて、本に埋もれるような生活してるみたいなんですよ! その上、キモノまでどこからか引っ張り出してきて、懐古主義者じゃないんですから、もう!」
「……本が、そんなにおかしいものなのか?」
いかにも憤慨しているといった様子でぷりぷりしてみせるシオンに、思わず仁が口を挟んでしまう。この発言は、双方にとって意外なものだった。シオンはまさかそこに疑問を持たれるとは思わなかったし、仁はそもそも話を遮るつもりがなかった。仁がどこか戸惑うような表情をしたのと、相手の疑問について、両方の察しがついたか、シオンがふと顔をほころばせる。ついさっきまでの臨戦態勢が緩やかに解除されたようで、すんなりと流れ出る声音からは憤怒の熱いトゲの姿が消え失せていた。
「そうでした。風間さんたちの世界では、まだ紙の本が一般に流通しているんですよね。小牟さんに聞きました」
「あんたの世界では、もうないのか」
「一応、あるにはあります。でも、もう骨董品扱いですね。一部の好事家が集めているくらいで。なにせ紙製でしょう? 本好きの知り合いが言うには、光データよりも保存性は上、だそうですけど。やっぱり重くて、かさばって、保管に困りますよ」
「……なるほど」
こんなに扱いにくいものを、と紙製の本について問題点をすらすらと挙げてゆくシオンに、仁は反論もせずむしろ感心にも近い感想を持った。ごく当たり前のものとして受け止めている本が、世界が変わるとこうも異なる視点と意見で扱われているとは、思いもしなかった。これも異文化交流だろうか、などと未来人の意識について知識を深めながら、どこかのんきに彼は考えた。
なのにシオンは急にはっとすると、視線をおろおろ彷徨わせて、また頬を軽く朱に染める。ブラッシング当初のような他愛のない、穏やかな会話が戻ってきた所為で、かえってついさっきまでの自分の勢いが際立って感じられたらしい。感情をさらけだしすぎたのが恥ずかしいのか、目を膝に落としながら肩も落とし、情けない弱り顔で、そろそろと付け足すように続ける。
「そんな兄、なので……その、苦手で。通信でも直接でも、顔を合わせればすぐ口喧嘩みたいになってしまうのが、嫌で。兄妹なのに、苦手意識を捨てきれなくて。ですから。あの」
「――それで、俺の名前にさえも、緊張していたのか」
「……はい……」
最後の言いにくいところを仁が引き取ってやると、シオンは力なく頷いた。しかしすぐさま顔を上げると、唇を食い縛ったような表情で仁を真っ直ぐみつめる。真摯そのものの様子だったが、頼りなく八の字になってしまった眉では、それもどこかおかしみが含まれてしまう。敢えて彼は指摘しなかったけれど。
「私の勝手な事情で、風間さんにご迷惑をおかけしてしまって……すみませんでした」
そう言い、深くこうべを垂れる。つやのあるアガット色の三つ編みが、細い肩から滑り落ちる。そんなさまを見るでもなく見ていた仁に、すぅ、と理解がしみこんでいった。
出会ってから今まで、持ち続けてきた疑問が、漸く氷解した。疑問というよりは、誤解というほうが真実の姿だった。近しいのに、苦手な名前。近づき方がいまだに分からない、近づきたくても近づけない名前。そんな、シオンにとって複雑な意味合いを持つ名前と、どういうわけか、異世界で出会ってしまった。思いもよらぬ場所で、思いもよらぬ名前は、何の前触れもなく彼女の鼓膜を叩く。だからこそ彼女はそのたびごと、咄嗟に体を強張らせるしか術がなかったのだと。彼の名前が違う意味で響いていたのだと。
乾いた砂へ水が染み入るように、静かな理解へ至った仁から、今も頭を下げたままの彼女に向け、口をついて出てきた言葉は、彼自身、意外なものだった。
「慣れることは、できるんじゃないか」
謝罪の言葉への応えとして、投げ返されたのは、提案。驚いたように思わず顔を上げるシオンに、言葉足らずだったかと仁は内心思いながら、ゆっくりと付け加える。その間にも、仁の脳裏には様々な思考の過程が早回しのフィルムのように流れていった。さっきまで交わされていた自然な会話、肩肘を張らずくつろいだ表情、それに彼とは決定的に違う、歩み寄れるかもしれない家族の可能性。一つずつ、捕まえて、形にする。
「名前を別にしたら、俺とあんたは、普通に話ができていた。なら、あんたが苦手な”ジン”という名前に、俺という別の意味を含めて、薄めれば良い」
シオンたち兄妹に、どのような過去があり、現在のような関係になったのかは彼の知るところではない。そもそも、実際にやりとりしている場面を見たこともない上、シオンからある意味一方的な話を聞いただけにすぎない。仁が知るのは、ごく表層。しかし、それでも、部外者だからこそ、異なる視点から新たな方策を示すことができる。
実際、シオンにとって、この持ちかけは相当に斬新なものだったらしい。考えもつかず、文字通り目から鱗なのだろう、憑き物でも落ちたような表情で、仁の提案をゆっくりと飲みこんでゆく。
「それなら、その方法なら…苦手意識も一緒に薄れて…何度も使ううちに、慣れて……」
「そうだ」
一つ一つを、指折り数えるように口にすることで、シオンは自身の中で検討を重ねているらしい。対する、短い仁の相槌が、そこへ更に安定感を加える。当人は、そんなことを全く意識していないけれども。
シオンはくせなのか、また胸元に手を添え、軽くうつむいてみせるも、それは動揺のためではなかった。深く沈思し、俊秀と名高いその頭脳の中で、検討、解析、再検討が、めまぐるしい速度で展開される。けれど、それも一瞬。仁に向けて、真っ直ぐに顔を上げた彼女の表情には、ちかりと輝く力強い意志があった。それでも彼女は、あくまで一歩引いてみせる。
「いいんですか? 私の都合に、お付き合いして頂いて。そもそも、わたしの勝手な事情で、ご迷惑をおかけしていたのに」
「……構わん。これは、俺から言い出したことだ」
「それじゃあ……」
了承を得、シオンは相手の顔を正面から見つめると、こくりと喉を動かしてから口を開きかけて、また閉じる。そんな自分が少しおかしかったのか、照れたように薄く笑みを刷くと、一度瞬いてから、彼女はなよやかに微笑んだ。
「これから、よろしくお願いしますね。……仁、さん」
使い慣れない名前に、どこか心楽しい戸惑いを抱きながら悪戯っぽく見上げてくるシオンへ、仁はつられたように、そっと目元を和らげた。
「ああ」
短く答えて小さく頷いた彼の額で、真っ直ぐになった髪が一房揺れた。
恐がられているのだと思っていた。
現在、周囲で緩やかに展開しつつある状況に身を任せながら、彼はそんな言葉を淡い困惑と共に胸の内で繰り返していた。
確かに、柔和な顔つきだとはお世辞にも言えないと自分自身思っていたし、今まで歩んできた道のお陰で、饒舌なんて言葉とはつくづく縁のない口数だとも知っている。だから例に洩れず、恐がられているのだと、てっきり思いこんでいたのに。
誰かが彼を呼ぶたび、彼の名を口にするたびに、その人物はびくりと緊張してみせた。その呼び声が、どれだけ明るく、屈託のないものであろうと、傍目にも明らかなくらい体を強張らせてしまう。普段は穏やかで、生真面目で。大人数ゆえに山積してしまう細々した雑務を、率先してこなしてしまう人なのに。彼の名前が響くたび、反射のように顔や体中を硬直させていた。ある時など、彼の名前が聞こえた際に食事の後片づけをしていたため、手にしていた皿を床に落とし、ぱりんと割ってしまったくらいだった。これだけの状況証拠が揃えば、やはり恐がられているのだな、と彼が判断しても無理はない。
とはいえ不可解な点が、なくはなかった。おかしなことに、呼ばれるのが彼の名ではなく姓だと、件の人物は平然としていた。反応するのは下の名前においてだけで、上の名前にはてんで無反応なのだから。それだけはどうにも腑に落ちなかったが、結局、彼は納得してしまっていた。風間仁は――恐がられているのだと。
そう。思っていたのに。
ことの起こりは、ほんの数分前。最早どういう分類に当てはめて呼称すべきやらわけわからない状態に陥っている、しっちゃかめっちゃかとしかいいようのない集団。なんだかんだと世界を渡り歩くうちに、目指す先は幻想界のジョイラントということになった。艦を下ろすため、着陸地点を探す少しの間、仁はゲゼルシャフト号の洗面所にいた。
ばしゃばしゃと髪に水を含ませ、目の前にある鏡を見ながら乱暴にがしがし手ぐしで梳いてみる。しかし、幾ら水をかけようが、撫でつけようが、彼の髪は見事にいつもの形状を保ったままだった。多少覚悟はしていたものの、いざ目の当たりにすると、つい小さく、諦めの溜め息が漏れてしまう。
自分でも子供じみているな、とは思う。だが異世界に来てからというものの、妖艶な夢魔には「その髪型だと性格悪くなるわよ」とあだっぽく忠告され、更に腹立たしいことに誰とは言わないが「あの男に似ている」などと、周囲から言われっぱなしでいる。特に、後者に関しては、彼にとって大変不本意極まりないものだった。なので、その評価を断固としてはねのけるため、絶対に似てたまるものかという意志表示として、髪型を変えようと試みてみたのだが。
生来のくせっ毛は、ほんのりしんなりしただけで、清々しいほど変わらない形を維持している。全くもって認めたくないが、改めて遺伝という単語の意味を実地で思い知らされ、苦渋の吐息を落とすと、彼は口元を引き結んで鏡の前を後にした。
彼女に出会ったのは、そんな時だった。
「どうしたんですか、風間さん!? ずぶぬれじゃないですか!」
洗面所の扉をくぐるとすぐ、廊下からすっとんきょうな声が飛んできた。まさか誰かに会うとは思っておらず、内心驚きながら目を向けると、声の主は『自分を恐がっているのだろう』人物、シオンだった。
いや、これは、と理由が理由だけに、そして相手が相手だけに、説明すべきか否かと口ごもる僅かな間にも、彼女は仁の元へ駆け寄ってきていた。そうして今もぽたぽたと雫を垂らしている、ぬれねずみな仁を、いたわるように見上げてくる。そのいかにも心配そうな眼差しに、また物怖じしない常盤の瞳に、恐がっているさまなどは見受けられなかった。ただひたすらに、彼を案じていることだけが見て取れた。
そういった感情を真正面からぶつけられることなど、ここ暫く体験していないものだったから。彼は思わず正直に、応じてしまった。
ぽたり、ぽた。
雫で床を濡らし、服を湿しながら。照れや気恥ずかしさに襲われることもなく、気圧されたわけでも勿論なく、真摯な瞳に真摯な言葉で返そうとして。ちょっぴり子供じみた行動の理由が、ぽろりとまるい水滴のように零れ落ちる。
そうして返ってきたのは、からかいでも笑い声でもなく、やわらかく蕾がほころんでゆくような婉然たる微笑だった。
ちょっと待っててくださいねと言い残し、軽やかな足音を立てて走り去ると、数分も経たずして、目をきょとんと見開いている仁の前へ、魔法のように何処からともなく白いふわふわのタオルと櫛を手にして現れた。恐らくは、もうこの艦の倉庫やら棚の中身やらを把握しきっているのだろう。そして彼が「何を」と訊ねる間もなく、シオンは笑顔のまま仁の袖を引っ張って、さあさこっちですとすぐ側にある食堂まで連れて行き、椅子の一つに腰掛けさせた。
そうこうしている間に始まったのは、シオンの手による丁寧なブラッシングだった。
*
で。現在に到るわけなのだが――正直、彼はなんとも不思議な気分だった。てっきり恐がっているものだと思いこんでいた相手が、親しげな微笑をたたえたまま背後に立って、自身の髪を梳いている。その姿からは、いつも彼の名を聞いて緊張しているさまなど、なかなか連想できない。だが実際にシオンはいつも、彼の名前を聞くたびにおののいていた。そうでなければ、あの身の強張らせ方について説明がつかない。しかし、だとしたら、現状はどういうことなのか。
胸の奥に浮かぶ疑問符は、あぶくじみて、ぷかりぷかりと生じるばかりで打ち消すことができない。だがシオンは仁の静かな戸惑いに全く気づかず、さも楽しげに櫛持つ手を動かし続ける。しかも、何気ないお喋りまでしながら。
「手ぐしだけじゃあ、駄目です。きちんと櫛を入れないと。髪が痛みますし、何より、ちっとも綺麗にまとまってくれませんよ?」
「いや、今まで髪には無頓着だったんだ」
「ふふ。なら、なおさらです」
くすくすと柔らかな笑い声を立てながら、様々なことを話しかけ、その間ちっとも手を休めようとはしない。気の利いた、とは言いがたい仁の相槌にも、シオンが気を悪くした様子はなかった。彼女が口にするのは、他愛のない話ばかり。仁の髪はくせっ毛のようだから、きちんと櫛を当ててやらないと、とか。モモちゃんやKOS-MOSの髪もよく梳いたりするんですよ、とか。優しい声と優しい指が、するするゆっくり、くしけずってゆく感覚は、心地良くも何処かこそばゆい。けれどもやっぱり、快く。体の奥底で硬く凍てついていたものが、ふうわりと春の吐息で、その表面を僅かに緩ませてゆくようだった。
が。せっかく氷解の兆しが見えたとしても、その中心には依然として、がちん、と留まり続ける疑問の塊。気難し屋の万年雪は、疑問符をうんと凝縮した状態のまま、仁の中に鎮座し続けていた。せっかくこうも、しなやかな指がそっと触れてくれているというのに、胸に残り続ける歪な感覚は、どうにも消え去ってくれそうにない。
だから仁は、一瞬迷い、口内にとどめた言葉を舌の上で転がしてから、やはり出すことに決めた。相手に対して、ある意味失礼とも取れる質問ではあったけれど、何だか言えてしまうように思えた。彼自身にもよく分からないが、先程、思わずぬれねずみの理由を話してしまったのと同じように、すんなり素直に、飾らない言葉で。
無理に抑えこまれていたものが、ぽろん、と自然に落ちてくる。
「あんた、俺を恐がっていたんじゃないのか」
あまりに、と言えばあまりにもな問いかけに、慣れた手つきで髪を梳いていたシオンの動きが、ぴたりと止まった。親しげに触れてきていた指も、櫛も、すっかり停止してしまう。この反応はある程度予測していた仁が、この隙に振り向いてみると、彼の目に飛びこんできたのは、眼鏡越しの瞳を丸くして子供のように目をぱちくりさせているシオンの姿だった。けれど、やはり。彼女の表情に、怖れや怯えといったものは、どうしても見当たらない。相変わらず、その反応が何を示しているのか判然としない。一体どう解釈すれば良いのかと、仁が考えこみかけると、漸く時間が流れ出したのか、シオンの唇がゆっくりと動きだした。
「どうしてですか?」
逆に質問を返されて、やや面食らってしまいそうになる。心底から不思議そうに、何がどうなったらそんな考えに到るのかしら、とでも言いたげに、純粋な疑問がこめられている。櫛を片手に小首を傾げて、それでも視線は真っ直ぐに問うてくるものだから。最早ためらう気持ちさえなくなって、仁も真っ直ぐ見返すと、とうとうかねてから抱いていた疑問の根っこを、ずばりと解き放った。彼女の瞳の只中に、鋭い眼差しをした自分をみつけた。
「俺の名前を聞くたびに怯えていただろう」
「怯え……?」
「体を、強張らせていた」
「え……」
恐れの対象である張本人が、いくら説明してみても、やはりシオンにはどうも合点がいかないようだった。何のことなのか、さっぱり糸口が掴めないでいるらしい彼女へ、とうとう仁は最後に、渾身の一矢を放つ。
「”仁”と、聞くたびに」
「!」
瞬間。シオンの常盤色をした双眸が大きく見開かれ、虹彩は細く引き絞られた。鋭い矢じりが的の中央を射抜くのと同じに、その名が、彼女が内に秘めた小さな星を過たず貫いたようだった。
その言葉の効果は、目に明らかだった。口にした途端、目の前で起こった劇的な変化を、仁は後々まで鮮やかに思い出すことができた。表情は、驚愕のあまり真ん丸になってしまった瞳と、声もないまま薄く開かれた唇がやや目立つくらいで、特に大きくは揺らがない。特筆すべきは、その顔色だった。
ほんの短い仁の発言で、彼女の顔色は、夜明けを早回しにしたようになった。僅かな時間で彩りを、濃淡を変えてゆく空そのものに。青藍の朝へ朱鷺の風切り羽色をした最初の曙光がさして幕が上がり、淡い桜から上気した水蜜桃、つややかなさくらんぼを経て、やがてほれぼれするように見事な完熟林檎へと到達した。
早い話が、真っ赤になったそのさまに、仁は夜明けと同時に『沸騰』という言葉もまた思い浮かべた。
「ち、違っ…、違います! 風間さんが恐いだなんて、そんなことはないんです!!」
「しかし……」
感心してしまうほど赤い顔で、熱いお湯にぐらぐらゆだってしまったようなシオンが、やっと我に返ったらしく慌てて弁明を試みる。けれどまだ、とても論理的とはいえない言い分に、仁は訝しげな反応を示してしまう。別に彼女が嘘をついている、などと思うわけではないが、だとしても全体的に釈然としないことばかりだった。怯えているでなし、恐がるわけでなし、本人もまたそう証言する。だがあの態度は……と、やもすると再び沈黙のうちに考えこんでしまいそうな仁に向かい、シオンは必死に言葉を尽くそうとする。
「違うんです、本当に……ええと、それは、その」
きっと、冷静に、冷静に、と自分へ言い聞かせながら、適切な説明を探しているのだろう。しかし落ち着き払って理性的になって、訴えようとするも、言葉は熱でぶちぶちと分断されてしまう悪いパスタのように切れ切れのものしか捕まえられず、段々と息まで詰まりそうになってしまう。やがて諦めたか、シオンは重々しい溜め息と重々しい深呼吸を一つずつ、してみせた。
深い、深い、呼吸音が、遠くで唸る鈍いエンジン音が聞こえるだけの、しんとした場へいやによく響く。この中途半端な静寂が、肺から押し出された熱をも、ゆるゆると奪ってくれたのやもしれない。動悸が鎮まり、平静をそろそろと取り戻したシオンには、新たな大気が胸に満ちるのと同時に、覚悟もまた満たされたようだった。
片手を胸元のペンダントに添えて、腹を括ったシオンが顔を上げる。顔色も随分と落ち着いて、苺ミルクくらいにおさまっている。それでもまだ、風呂上りのような彩りであることに間違いはなかったけれど。両の目にはくっきりと、引かない決意が表れていた。
いつの間にか居心地悪そうに閉ざされていた唇を、ゆっくりとためらいがちに、大変言いにくそうに押し開く。
「―…兄と、同じ名前、なんです……」
手近な椅子に腰掛けて、体ごと向き直った仁と相対する。こうなると最早、髪がどうのこうのは二の次だったし、お互いこちらの説明が優先なのは暗黙の了解だった。それに大元の理由が一つ明かされただけでも、仁にはかなりの収穫だった。いかなる原因で兄と同じ名に拒否反応を示すのかは不明でも、『身内に対する複雑な感情』ということに関しては、仁にも痛いほど身におぼえがあるため、理解が容易い。
身内、という言葉を脳裏に浮かべるだけで、いつの間にか眉間に皺を寄せてしまう仁のさまを別の意味に解釈したか、シオンが観念したように重い口を動かした。
「兄が……いるんです。住んでいる場所も、年も離れた……ただ一人の、家族です」
一言一言を迷いながら選び出しているようだが、どれもこれもがひどく弱々しい。その中の『ただ一人の家族』という言葉に、仁はひそかにちくりとしたものをおぼえたけれど、その感覚は僅かに彼の眉をひそめさせたに過ぎなかった。
やや目を伏せ気味にして、緩やかに説明を重ねてゆくうちに、なぜか突然シオンの声がぴたりとやんだ。言葉を選びかねた一瞬の間の後、ややへの字になっていた唇から、核心が勢いよく転げ出した
「……その兄が、どうしようもないんです!!」
腹の底から絞り出したような、奇妙なほど感情がこめられた声音に、仁がちょっと目を見開く。そもそもの話として、彼女がこうも感情的な言葉を発するのを、初めて聞いた気がする。こんな、やや声を荒げている、と言ってしまっても良いくらいの口振りなど、耳慣れない。確かに、たまに同行のアンドロイドをたしなめるように軽く叱るのは、見たことがある。けれど同じく同行の少女や、他の人々に対しても、シオンは常に優しげで穏やかだった。そんな彼女が、抑えきれない思いをほとばしらせるように声を発するとは、想像もしなかった。
しかも、いつの間にか膝の上で両手を固い拳にして、次々と明かされるその理由が。
「ちっとも定まった仕事に就く気がなくって! 一人暮らしでふらふらしていて! たまに通信入れてくると思ったら、常に小言ですよ! むしろ心配してるのはこっちなのに、そんなことお構いなしで、自分の言いたいことだけ言うんですから!!」
今度は先と異なる理由で、また徐々に頬の血色を良くしながら、シオンはぶちまけるように言い募る。あまりの剣幕に、少し仁があっけに取られたくらいだった。けれどただ一人の家族に対し、あらん限りの不満を述べるシオンのさまは、彼には何となく、信頼の裏返しめいて感じられた。
信じている相手だから、違うと不満をぶつけることができる。仁の場合は、もう色々とそれ以前の問題であったから。だから、普段の才媛さをかなぐり捨てて、子供のように唇を尖らせてまくしたてるシオンのさまに、なんだか、口の端が僅かに緩みそうになってしまう。
「しかも、本なんてものを集めて、本に埋もれるような生活してるみたいなんですよ! その上、キモノまでどこからか引っ張り出してきて、懐古主義者じゃないんですから、もう!」
「……本が、そんなにおかしいものなのか?」
いかにも憤慨しているといった様子でぷりぷりしてみせるシオンに、思わず仁が口を挟んでしまう。この発言は、双方にとって意外なものだった。シオンはまさかそこに疑問を持たれるとは思わなかったし、仁はそもそも話を遮るつもりがなかった。仁がどこか戸惑うような表情をしたのと、相手の疑問について、両方の察しがついたか、シオンがふと顔をほころばせる。ついさっきまでの臨戦態勢が緩やかに解除されたようで、すんなりと流れ出る声音からは憤怒の熱いトゲの姿が消え失せていた。
「そうでした。風間さんたちの世界では、まだ紙の本が一般に流通しているんですよね。小牟さんに聞きました」
「あんたの世界では、もうないのか」
「一応、あるにはあります。でも、もう骨董品扱いですね。一部の好事家が集めているくらいで。なにせ紙製でしょう? 本好きの知り合いが言うには、光データよりも保存性は上、だそうですけど。やっぱり重くて、かさばって、保管に困りますよ」
「……なるほど」
こんなに扱いにくいものを、と紙製の本について問題点をすらすらと挙げてゆくシオンに、仁は反論もせずむしろ感心にも近い感想を持った。ごく当たり前のものとして受け止めている本が、世界が変わるとこうも異なる視点と意見で扱われているとは、思いもしなかった。これも異文化交流だろうか、などと未来人の意識について知識を深めながら、どこかのんきに彼は考えた。
なのにシオンは急にはっとすると、視線をおろおろ彷徨わせて、また頬を軽く朱に染める。ブラッシング当初のような他愛のない、穏やかな会話が戻ってきた所為で、かえってついさっきまでの自分の勢いが際立って感じられたらしい。感情をさらけだしすぎたのが恥ずかしいのか、目を膝に落としながら肩も落とし、情けない弱り顔で、そろそろと付け足すように続ける。
「そんな兄、なので……その、苦手で。通信でも直接でも、顔を合わせればすぐ口喧嘩みたいになってしまうのが、嫌で。兄妹なのに、苦手意識を捨てきれなくて。ですから。あの」
「――それで、俺の名前にさえも、緊張していたのか」
「……はい……」
最後の言いにくいところを仁が引き取ってやると、シオンは力なく頷いた。しかしすぐさま顔を上げると、唇を食い縛ったような表情で仁を真っ直ぐみつめる。真摯そのものの様子だったが、頼りなく八の字になってしまった眉では、それもどこかおかしみが含まれてしまう。敢えて彼は指摘しなかったけれど。
「私の勝手な事情で、風間さんにご迷惑をおかけしてしまって……すみませんでした」
そう言い、深くこうべを垂れる。つやのあるアガット色の三つ編みが、細い肩から滑り落ちる。そんなさまを見るでもなく見ていた仁に、すぅ、と理解がしみこんでいった。
出会ってから今まで、持ち続けてきた疑問が、漸く氷解した。疑問というよりは、誤解というほうが真実の姿だった。近しいのに、苦手な名前。近づき方がいまだに分からない、近づきたくても近づけない名前。そんな、シオンにとって複雑な意味合いを持つ名前と、どういうわけか、異世界で出会ってしまった。思いもよらぬ場所で、思いもよらぬ名前は、何の前触れもなく彼女の鼓膜を叩く。だからこそ彼女はそのたびごと、咄嗟に体を強張らせるしか術がなかったのだと。彼の名前が違う意味で響いていたのだと。
乾いた砂へ水が染み入るように、静かな理解へ至った仁から、今も頭を下げたままの彼女に向け、口をついて出てきた言葉は、彼自身、意外なものだった。
「慣れることは、できるんじゃないか」
謝罪の言葉への応えとして、投げ返されたのは、提案。驚いたように思わず顔を上げるシオンに、言葉足らずだったかと仁は内心思いながら、ゆっくりと付け加える。その間にも、仁の脳裏には様々な思考の過程が早回しのフィルムのように流れていった。さっきまで交わされていた自然な会話、肩肘を張らずくつろいだ表情、それに彼とは決定的に違う、歩み寄れるかもしれない家族の可能性。一つずつ、捕まえて、形にする。
「名前を別にしたら、俺とあんたは、普通に話ができていた。なら、あんたが苦手な”ジン”という名前に、俺という別の意味を含めて、薄めれば良い」
シオンたち兄妹に、どのような過去があり、現在のような関係になったのかは彼の知るところではない。そもそも、実際にやりとりしている場面を見たこともない上、シオンからある意味一方的な話を聞いただけにすぎない。仁が知るのは、ごく表層。しかし、それでも、部外者だからこそ、異なる視点から新たな方策を示すことができる。
実際、シオンにとって、この持ちかけは相当に斬新なものだったらしい。考えもつかず、文字通り目から鱗なのだろう、憑き物でも落ちたような表情で、仁の提案をゆっくりと飲みこんでゆく。
「それなら、その方法なら…苦手意識も一緒に薄れて…何度も使ううちに、慣れて……」
「そうだ」
一つ一つを、指折り数えるように口にすることで、シオンは自身の中で検討を重ねているらしい。対する、短い仁の相槌が、そこへ更に安定感を加える。当人は、そんなことを全く意識していないけれども。
シオンはくせなのか、また胸元に手を添え、軽くうつむいてみせるも、それは動揺のためではなかった。深く沈思し、俊秀と名高いその頭脳の中で、検討、解析、再検討が、めまぐるしい速度で展開される。けれど、それも一瞬。仁に向けて、真っ直ぐに顔を上げた彼女の表情には、ちかりと輝く力強い意志があった。それでも彼女は、あくまで一歩引いてみせる。
「いいんですか? 私の都合に、お付き合いして頂いて。そもそも、わたしの勝手な事情で、ご迷惑をおかけしていたのに」
「……構わん。これは、俺から言い出したことだ」
「それじゃあ……」
了承を得、シオンは相手の顔を正面から見つめると、こくりと喉を動かしてから口を開きかけて、また閉じる。そんな自分が少しおかしかったのか、照れたように薄く笑みを刷くと、一度瞬いてから、彼女はなよやかに微笑んだ。
「これから、よろしくお願いしますね。……仁、さん」
使い慣れない名前に、どこか心楽しい戸惑いを抱きながら悪戯っぽく見上げてくるシオンへ、仁はつられたように、そっと目元を和らげた。
「ああ」
短く答えて小さく頷いた彼の額で、真っ直ぐになった髪が一房揺れた。
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