とまり木 常盤木 ごゆるりと
ひねもすのたのた
前回の日づけと今回の日づけを比べて戦慄したのはひみつ
まあ、またゆるゆると書いていきましょう。
本日はこれで。
短編で、切り取るのは瞬景。
『夜ごと日ごとに鏡よ鏡(百夜白夜)』
今のさまを、どう表現すべきなのか、藍澄には分からなかった。もう少し年齢を経ていれば、あれこれ言葉は思い浮かんだやもしれない。”煌々と”や、”爛々と”、また”炯々と”など――。けれど、そんな画数のやたらに多い漢字を、少年はまだ知らない。自身の名前もそれなりにややこしい漢字ではあったけれど、藍澄はひらがなでしか自分を認識していないので、そこは関係がない。だから今は漠然と、こう思うだけだった。
(目が、さえさえしてる――)
ぱっちりと、闇に慣れ始めた大きな目を見開いて、普段とまるで表情の違う自室を眺める。流石に、時計の針まで見定めることはできないけれど、少なくとも今が、本来眠っているべき時間であるということは分かる。
「珍しいね」
自身の置かれた状況に、思わずぽかんとしてしまっている藍澄の傍らへ、ころりと転がり寄るものがある。声の方向へ、夜目に馴染んだ視線を向けると、ぼんやり浮かぶ黄色く円い姿に、藍澄の表情が初めてへにゃりと緩む。ここまで呆然として、ろくに感情を表に出していなかったのが、ようやっと感情の動かし方を思い出したようだった。
眠れぬ夜の、親しい友へ、藍澄は全身の力を抜いて声をかける。
「やあ、ぶーちゃんII。ひさしぶり」
「やあ、どうも。こんばんは」
そこいらの道で顔を合わせたかのように、のんびりと挨拶を交わす。この小さな真ん丸いこぶたと、知り合いでない子供や、知り合いでないかつての子供は、なかなかいるものではない。もし、いるとしたら、それは彼を忘れているだけのことだった。
藍澄も、ここ数年はなかなか会う機会がなかったとはいえ、それでも相手を忘れるわけもない。むしろ、思わぬ友人と再会を果たして、喜びを露わにしてしまうくらいだった。暗い夜に、ついつい楽しげなお喋りが弾みだす。
「昼間にぐっすり寝ちゃったんだ。おひるねする年でもないのにさ!」
「あー、あるよねえ、そういう時」
「しかも、うちの家族ったら、ひどいんだよ! 起きたのが夕方でさ、それで、今の季節は日が長いから、まだ明るいだろ? 目ぇこすこすして、ぼんやりしてる僕に”おはよう”とか”朝だよ!”なんて言うんだ。しかも、まじめな顔してさ」
「あはは」
「そんなこと言われたら、一晩ばっちり寝すごしちゃったとか思うじゃないか! 」
「とんだミスリードされちゃったね」
「まったくだよ。でも、あんなへったくそな演技をみぬけなかったのも、くやしいなあ」
「寝起きだったんだ。仕方がないよ」
やや長く深くなってしまったお昼寝から覚めて、まだ頭が覚醒していない藍澄へ、悪戯な家族の仕かけた罠。まんまとはめられた自身が、いかに取り乱し、慌て、あわあわしたか。そのさまを、少年はこまごまと説明してみせる。やがて言葉は、次第に助走抜きの跳躍を始め、昼寝の理由から幼稚園の思い出、そのうち最近はやりのビー玉について論評がなされたかと思うと、今度は春から始まった小学校生活について語られ、かと思えばソメイヨシノにたかるオビカレハの幼虫に関して熱弁がふるわれた。
そして遂に、給食の牛乳における正しい飲み方として蓋を開けずにストローを撃ちこむ醍醐味の解説を始めようとしたところで、ふと藍澄の意識が揺らいだ。この感覚を、少年は知っていた。幾度も体験していたいるから、次にどうなるか、どうすべきか、も心得ている。数年の空白があったとはいえ、忘れるものではない。
藍澄は目元をこすろうともしないで、瞼をぐらぐらさせながら、ぶーちゃんIIへ向かう。
「ん……そろそろ、みたい」
「いつものきみだね」
「うん。いつもの、僕。普段のね。いつまでも、眠れないで泣いてた僕じゃないよ」
「うん」
時間のずれた眠りの所為で発生した、冴えてしまった夜。それもそろそろ、長いお喋りの果てに、終わりを告げようとしていた。とりとめのない、反復横跳びよりも激しい勢いで飛び交った話題に不満も言わず、ひたすら付き合い続けてくれていた友人に、藍澄は小さく笑う。
「眠りは、追っかけるもんじゃない。引っつかむもんでもない。そんなことしたら、逃げるもの。だったらのんびり、待ってりゃいいさ」
「それもまた、一つの方法だね」
「ついでだから、楽しいお喋りでも、してりゃいい。小さい僕は、こんな手段、ちっとも思いついてなかったけど」
「でも、最後にはちゃんと眠れてたよ」
「……そりゃ、あれだけ、泣きゃあね」
運動しすぎて疲れた口元が、やや皮肉っぽい形を取ったかと思うと、そのまますぅと押し黙る。曇りなく磨き抜かれた鏡のようだった意識へ、緩やかに言葉の埃が降り積もり、柔らかく藍澄を包みこむ。かつて、ままならない眠りに怯えきった少年は、わけも分からずそこへ涙を撒き散らしたものだったけれど。知恵と経験を得て、子供は一歩ずつ年月を昇りつめてゆく。温かい曇りを円い彼は親しげに眺める。
「朝陽がまた拭うよ」
今のさまを、どう表現すべきなのか、藍澄には分からなかった。もう少し年齢を経ていれば、あれこれ言葉は思い浮かんだやもしれない。”煌々と”や、”爛々と”、また”炯々と”など――。けれど、そんな画数のやたらに多い漢字を、少年はまだ知らない。自身の名前もそれなりにややこしい漢字ではあったけれど、藍澄はひらがなでしか自分を認識していないので、そこは関係がない。だから今は漠然と、こう思うだけだった。
(目が、さえさえしてる――)
ぱっちりと、闇に慣れ始めた大きな目を見開いて、普段とまるで表情の違う自室を眺める。流石に、時計の針まで見定めることはできないけれど、少なくとも今が、本来眠っているべき時間であるということは分かる。
「珍しいね」
自身の置かれた状況に、思わずぽかんとしてしまっている藍澄の傍らへ、ころりと転がり寄るものがある。声の方向へ、夜目に馴染んだ視線を向けると、ぼんやり浮かぶ黄色く円い姿に、藍澄の表情が初めてへにゃりと緩む。ここまで呆然として、ろくに感情を表に出していなかったのが、ようやっと感情の動かし方を思い出したようだった。
眠れぬ夜の、親しい友へ、藍澄は全身の力を抜いて声をかける。
「やあ、ぶーちゃんII。ひさしぶり」
「やあ、どうも。こんばんは」
そこいらの道で顔を合わせたかのように、のんびりと挨拶を交わす。この小さな真ん丸いこぶたと、知り合いでない子供や、知り合いでないかつての子供は、なかなかいるものではない。もし、いるとしたら、それは彼を忘れているだけのことだった。
藍澄も、ここ数年はなかなか会う機会がなかったとはいえ、それでも相手を忘れるわけもない。むしろ、思わぬ友人と再会を果たして、喜びを露わにしてしまうくらいだった。暗い夜に、ついつい楽しげなお喋りが弾みだす。
「昼間にぐっすり寝ちゃったんだ。おひるねする年でもないのにさ!」
「あー、あるよねえ、そういう時」
「しかも、うちの家族ったら、ひどいんだよ! 起きたのが夕方でさ、それで、今の季節は日が長いから、まだ明るいだろ? 目ぇこすこすして、ぼんやりしてる僕に”おはよう”とか”朝だよ!”なんて言うんだ。しかも、まじめな顔してさ」
「あはは」
「そんなこと言われたら、一晩ばっちり寝すごしちゃったとか思うじゃないか! 」
「とんだミスリードされちゃったね」
「まったくだよ。でも、あんなへったくそな演技をみぬけなかったのも、くやしいなあ」
「寝起きだったんだ。仕方がないよ」
やや長く深くなってしまったお昼寝から覚めて、まだ頭が覚醒していない藍澄へ、悪戯な家族の仕かけた罠。まんまとはめられた自身が、いかに取り乱し、慌て、あわあわしたか。そのさまを、少年はこまごまと説明してみせる。やがて言葉は、次第に助走抜きの跳躍を始め、昼寝の理由から幼稚園の思い出、そのうち最近はやりのビー玉について論評がなされたかと思うと、今度は春から始まった小学校生活について語られ、かと思えばソメイヨシノにたかるオビカレハの幼虫に関して熱弁がふるわれた。
そして遂に、給食の牛乳における正しい飲み方として蓋を開けずにストローを撃ちこむ醍醐味の解説を始めようとしたところで、ふと藍澄の意識が揺らいだ。この感覚を、少年は知っていた。幾度も体験していたいるから、次にどうなるか、どうすべきか、も心得ている。数年の空白があったとはいえ、忘れるものではない。
藍澄は目元をこすろうともしないで、瞼をぐらぐらさせながら、ぶーちゃんIIへ向かう。
「ん……そろそろ、みたい」
「いつものきみだね」
「うん。いつもの、僕。普段のね。いつまでも、眠れないで泣いてた僕じゃないよ」
「うん」
時間のずれた眠りの所為で発生した、冴えてしまった夜。それもそろそろ、長いお喋りの果てに、終わりを告げようとしていた。とりとめのない、反復横跳びよりも激しい勢いで飛び交った話題に不満も言わず、ひたすら付き合い続けてくれていた友人に、藍澄は小さく笑う。
「眠りは、追っかけるもんじゃない。引っつかむもんでもない。そんなことしたら、逃げるもの。だったらのんびり、待ってりゃいいさ」
「それもまた、一つの方法だね」
「ついでだから、楽しいお喋りでも、してりゃいい。小さい僕は、こんな手段、ちっとも思いついてなかったけど」
「でも、最後にはちゃんと眠れてたよ」
「……そりゃ、あれだけ、泣きゃあね」
運動しすぎて疲れた口元が、やや皮肉っぽい形を取ったかと思うと、そのまますぅと押し黙る。曇りなく磨き抜かれた鏡のようだった意識へ、緩やかに言葉の埃が降り積もり、柔らかく藍澄を包みこむ。かつて、ままならない眠りに怯えきった少年は、わけも分からずそこへ涙を撒き散らしたものだったけれど。知恵と経験を得て、子供は一歩ずつ年月を昇りつめてゆく。温かい曇りを円い彼は親しげに眺める。
「朝陽がまた拭うよ」
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